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順天堂大学医学部附属練馬病院地域の医療機関・皆さまへリレーエッセイ 妙手回春 妙手回春 順天堂練馬の外科系医師によるエッセイ:妙手回春第13回 総合外科 渡野邉 郁雄 中学生でパイロットになる夢を持った。当時民間航空会社に入るためには自衛隊に進むか航空大学校に進むかであることを調べ上げ、宮崎の航空大学校にアポなしで出向いた。正門から出てくる航空大学生にどうすれば入学できるか聞いて回った。高校2年になりパイロットになるには身長が足りないことを知った。勉学はお休みしバイトをやりまくって1人でインド旅行に。集めた17万円と片道の航空券のみで渡航した。晴天下のタージマハルを見上げてはじめて大泣きした。2週間の予定だったが見るもの全てが新鮮で結局40日間の滞在。帰国したときの両親はインドの闇市の徘徊より怖かったのを思い出す。  手塚治虫のブラックジャックの影響で医学の世界へ。病理医を目指していたが何を血迷ったか気付いたら外科医になっていた。回診準備、カンファ準備、手術、検体整理、レセプトに明け暮れた。ミャンマーやネパールで1年間ボランティア手術も行なった。そして時代は開腹から腹腔鏡へ。今やロボット手術の時代となり外科手術も大きく変化した。鏡の奥の自分も大分おっさんに様変わりした。  時代の変化に負けないハートを持ち続けたいものである。妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第12回】三橋 立(脳神経外科) 第12回 脳神経外科  三橋 立脳血管内治療   脳神経外科入局時、動脈瘤治療は開頭クリッピング術のみでした。顕微鏡下、動脈瘤を見つけクリップをかける手術は、まさに脳外科医の仕事でした。やっとクリッピングの技術を身につけた頃、動脈瘤治療に血管内手術が有効であるという論文が発表されました。  これが一大転機となり、動脈瘤治療は血管内手術が最優先となりました。そのため、いち早く血管内手術を専門としていた先輩が『師匠』となり、治療が必要な患者さんが現れるたびに私の病院に駆けつけてくださいました。師匠は、ガイドワイヤーから火花が噴くと巷で噂されたカリスマで、私は、師匠から信頼される助手になるべく、緊急の場合も全ての手術に参加しました。  数年経過したところ、師匠が前触れもなく「半年後の血管内治療専門医試験を受けるか?」と言ってきました。当時の血管内治療専門医試験は合格率5割の難関で、頼りになる助手が目標であった私は、合格の自信は全くないものの、準備をして受験しました。手応えもなく帰宅した翌日に、師匠から電話が鳴り、「おまえは天才だよ!合格だよ!」後にも先にも、師匠から褒められたのは、その時だけです。  私の師匠は、最近開業されましたので、この先一緒に仕事をする機会はないかもしれません。先日手術のさなか、後ろから師匠に監督されている気分になりました。師匠ならどうやるか、どこまでやるか、どこで退くか。いつか師匠に褒めてもらえるよう、日々精進するのみです。妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第11回】内山 美津希(形成外科 科長・助手) 第11回 形成外科 科長・助手内山 美津希  まだ、さほど長くはない自分の医師人生を振り返ってみた。研修医としての試練の日々、あこがれの形成外科医として勤務を始めた初日。そのすべてを今でも鮮明に覚えている。 形成外科医の第一歩を踏み出した4月1日、さっそく一人で当直をしていた。何事もないことを祈りながら夜が明けるのを待っていたが、そうはいかないのが世の常である。 深夜、電話が鳴る。「先生、指を切断してしまった患者さんが来ます。」研修医の時は頼りになる上級医がいたが、もういない。焦る心とは裏腹に冷静な表情を作りながら、いままでの経験と座学で得た知識を総動員し、無事患者さんの指を再接着することができた。 『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。』これは幼少期の頃から通った母校で繰り返し耳にしていた新約聖書のフレーズの一節で、今も折に触れては思い出す。 目の前の患者さんに向き合うとき、相手が本当は何を求めているのか、いつも思いを馳せる。相手が求めるものをすべて与えられるよう、自分の持てるすべての知識・医術を全力投球していく。震えながら処置にあたったあの日から、奥深くに根付くあのフレーズが私の原動力となっている。 目立たないキズとキレイな機能・カタチを求める人々の心の声に耳を傾けながら妙手回春を目指すべく、私は今日も形成外科医として全力投球で奮闘していく。2017年アメリカ形成外科学会総会にて水野主任教授(右)と筆者(左)妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第10回】村上 郁(乳腺外科 科長・先任准教授) 第10回 乳腺外科 科長・先任准教授村上 郁 高校生の時、阪神大震災を経験した。四国においても、その揺れは凄まじく、一瞬で眠りから覚めた。被災地の様子をニュースで目にした私は、現地でボランティア活動に参加したい!と父に訴えたが、賛同を得られず(後に謝罪されたが)、歯痒い思いでいた。しかし、全国から殺到したボランティアで混乱が生じ、受け付けてもらえない現状があった。そんな中、医師の参加は求められていた。当時の私は、「医師であれば誰かの役に立てたのかもしれない」と思った。  医学生時代、生きた臓器の美しさに魅了され、外科医になりたいと思った。激しい腹痛の原因についてCT画像を見ながら推測し、手術で腹腔内を観察するとその答えあわせができ、自分の技術をもって治療を施す。そんなところが魅力だった。乳腺外科医となった今、自分の目指すものは変わっただろうか。  医療職とは関係のない母に、「優しいお医者さんになって」と言われたことがある。これが、私が医師として働くうえでの軸となっている。がん患者は多くの不安と戦っている。診察への不安、検査への不安、手術への不安、家族への不安、抗がん剤への不安、再発への不安、予後への不安、終末期の不安、、、。その不安をなくすことはできないが、同じ方向を向くことはできる。私は、「自分が乳がんになったとき、頼りたい主治医」を目指している。妙手など、目指していない。今、同じような震災が起こったら、あの時の自分より少しはできることがあるだろうか。  「耕到天是勤勉哉」日々、研鑽を積む。乳がんの権威 霞富士雄先生(右)と筆者(左)妙手回春(みょうしゅかいしゅん) とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第9回】阪野 孝充(呼吸器外科 科長・助教) 第9回 呼吸器外科 科長・助教阪野 孝充  手塚治虫先生の代表作ブラックジャック。文庫版で再出版された当時、河合塾で理系浪人だった私は夏休みに(浪人には無いはずなのだが)書店で1冊手に取ったらたちまちその世界観にはまり、貯金をはたいて全巻購入し読み耽った。無免許ながら誰もが認める天才的な手術手技を頼りに様々な患者たちがブラックジャックの手術を求めてやってくる。そして彼は手術を契機として患者を感化し、術後の人生にさまざまな形で関わっていく。時には動物や医療AI(50年前にAIの医療介入を予測していた手塚先生の慧眼)の手術までする。法外な報酬金を要求するのはあくまでヤクザな患者だけで、道義を感じれば10円で引き受けたりもする。そう、彼は私にとっての妙手回春の理想なのである。そんなブラックジャックに感化され夏休み?明けから医学部志望に変更し、紆余曲折を経て外科医として生きていくことになった。  呼吸器外科医として独り立ちしてもう10年以上になる。自分がトップとして執刀した症例も2,000例を超えた。技術はブラックジャックに到底及ばないが、彼は理想であり日々の研鑽の励みになっている。(私の師匠、鈴木健司は現世で一番ブラックジャックに近いと思う)。いくつになっても成長を感じられるのは外科医の特権だろう。  患者との関係性はどうだろうか。自分が手術した患者は全員、自分の外来で定期的に診察させて頂いているが、外来はいつも朝から夕方までぶっとおし、休憩もとれず正直体力的には手術よりきつい。しかし、自分が執刀した患者は遠い親戚より愛おしく、私にとってはpricelessの財産である。「先生の顔をみると安心する」、「先生、今日も握手」、とこんな私を妙手扱いしてくれる患者も歳を重ねるごとに増えてきた。一方で、いくつになっても外科医としては術後患者の経過が思わしくない時、憂鬱になる(手術は手術、術後は術後、で到底割り切れるものではない。)。そんな時、大勢の患者さん達との会話、言葉で私は救われ、再び外科医として前に進んでいく原動力を与えてもらっている。 妙手回春とは、患者だけでなく外科医も春を感じているのだとつくづく思う。気力体力の続く限り、外科医として世の中に貢献していきたい。 鈴木健司先生と 2014米国胸部外科学会にて 39歳 陸上自衛隊医官時代 29歳 妙手回春(みょうしゅかいしゅん) とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第8回】荻島 大貴(産科・婦人科 科長・教授) 第8回 産科・婦人科 科長・教授 荻島  大貴 小学校5年生から日曜日が無くなった。中学受験の塾に通うためである。その週の課題を自己学習し、毎週日曜日の塾ではテストが行われ、それを解説するスタイルである。日曜日がない生活は苦痛であったが、唯一の楽しみは帰りに駅の売店で買う週刊少年漫画誌であった。当時はジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオン、キングと多彩であった。その中でも一番面白かったのが、少年チャンピオンの手塚治虫「ブラックジャック」と、キングの松本零士「銀河鉄道999」であった。 ブラックジャックはメスを使って病気を何でも治す外科医である。傲慢なお金持ちからは高額な治療費を取るが、善良な人からは取らないだけでなく、小鳥や犬猫までも治してしまう。当時はメスを使って何でも治してしまう姿に憧れていたが、医師になって30年余りが経ち身に沁みる章は「ときには真珠のように」である。この中でブラックジャックは老衰で倒れた恩師、本間丈太郎先生を助けることができなかった。彼にとって、本間先生は少年時期に爆弾でバラバラになった体をつなぎ治し、医師を志すきっかけを作った恩師である。ブラックジャックは全力で治療に挑むが、恩師の老衰には勝つことができなかった。最後のシーンで落ち込むブラックジャックに寄り添うように、聖霊となった本間先生が語る「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」と。 「銀河鉄道999」は、少年星野鉄郎が機械の体である「永遠の命」を手に入れるためにメーテルとともに旅をする物語である。省略するが、物語のテーマは命であり、永遠の命とは子どもを産み、次の世代へ紡ぐことであり、旅を通じて鉄郎はそれに気がつくのである。 近い将来、寿命に関する遺伝子やその仕組みが解明され、永遠の命が本当に手に入る時代が来るかもしれない。しかしながら、限り有るからこそ、「命」が無限大の価値を生み出し、より良い人生を歩むことができるのかもしれない。塾通いで出会った二つの名作により、現在自分は産婦人科医として、命の誕生とそれを支える母親に対する仕事に携わっているのであろう。最後に、シリーズのテーマである「妙手回春」とは、手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなることであるが、子どもにとって母の「手当て」が一番の癒やしの力である。順天堂大学卒業時妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第7回】武藤 智(泌尿器科 科長・教授) 第7回 泌尿器科  科長・教授 武藤 智百折不撓  私は泌尿器科外科医である。泌尿器科医になってから約30年の間に泌尿器科手術は劇的な変遷を遂げた。私が研修医の頃は、腹腔鏡手術も立ち上がりの頃で、ほぼすべてが開腹手術であった。その後約10年前にロボット手術が登場し、あっという間に中心となってしまった。現在国内どこのグループでも開腹手術は年に10件も無いだろう。ロボット手術はそれだけ歴史が浅く、一部は未だ術式が確立していない。私が専門とする膀胱がんに対する膀胱全摘除術後の尿路変更術、特に新膀胱造設術もその一つである。回腸を遊離し球状に縫合して尿道および尿管と吻合するが、利用回腸が長い、縫合部位が長いなどの問題があり、未だglobalに認められた術式は存在せず、われわれも様々な工夫を日々凝らしている。昔から時々耳にする言葉だが、手術が上手い先生を「神の手」とか表現することがある。ただし、もし神様しかできないような術式であれば、これは手術ではない。十分な鍛錬を積んだ該当する疾患の専門医が、皆同じように結果を達成することができなければ手術とは言えない。ロボット支援新膀胱造設術の術式を確立するためには、十分な医学知識、空間認知能力、外科手技技術力を取得した多くの泌尿器外科医が均等な結果を得られることは必須である。将来を熟思洞察し、皆の衆智を集め、間然するところが無い術式を確立するために、百折不撓の思いで進んでいきたいと考えている。 筆者30代のころ 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第6回】山本 平(心臓血管外科 科長・先任准教授)      第6回 心臓血管外科 科長・先任准教授 山本 平この状況はまずい。今までにこんなことはなかった。 それでも容赦なく、神と呼ばれる天才心臓外科医の声が手術室に響く。 「集中しろ。厳しいのはわかる。でも お前にも見えているんだろう?」 今見えている手術の景色、それだけでなく術野に隠れている大事な景色も見えている。 それとも他に何かが見えるというのか。 この厳しい手術の状況だけではないのか? この患者さんがこれまで生きてきた人生なのか? 患者さんを待つ家族の姿なのか? この状況が乗り切れなかった時の家族の涙なのか? それともここを乗り切った時の数年後の患者さんと家族の楽しそうな笑顔なのか?   心臓外科医は、うまくいった手術はすぐに忘れてしまう。 当たり前の手術として体は覚えるが、頭の中には何も記憶として残らない。 しかし、うまくいかなかった場面は、決して消えることなく過剰記憶として蓄積されていく。 その記憶ともに、患者さんの姿、家族の姿も焼き付いて刻印されていく。   これは、私たちの幼少期から何も変わらない。 病気や事故で亡くなった小学・中学・大学時代の友達・親類との最後の会話、最期のお別れ、その時にその場にいた御家族の姿、御家族との会話、すべて記憶され消えることがない。 仕事として医学を選び、外科医になっても何も変わらない。 このどうにもならない記憶が蓄積されていく。   「あの時、もう少し違っていれば」「あの時、もう一手あれば」と日々思い浮かんでは考える。この消えない記憶を乗り越えるために、本を読み、いろいろな事象を調べて、新たな治療や新たな手術をできるように準備をする。 すべては患者さんと家族の笑顔のために。   神と呼ばれる外科医から多くのことを教わった。 「俺は、ここで最大で最高の一手を打つ。お前も絶対ついてこい。逃げるなよ。」 この緊張した場面が終わると平穏な日々に戻る。 よくできた仕事は、すべて記憶から消えていく。   こんな経験を私は後輩達に伝えられているのであろうか。 自問自答の日々を過ごす。 順天堂大学卒業時 筆者の研修医時代(左)食道がんの権威 秋山洋先生と(右) 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第5回】金 勝乾(整形外科・スポーツ診療科 科長・教授) 第5回 整形外科・スポーツ診療科 科長・教授 金 勝乾   バスケットボールの試合が行われているアリーナで一際歓声が上がった。ケガから復帰した選手が途中交代で数ヵ月ぶりに出場した時だ。自分が手術をしてずっと経過を見てきた選手が試合に復帰するのを見るのはスポーツ整形外科医として本当に感激する瞬間である。 整形外科医になりスポーツ整形外科を専門としてきた。縁があってプロバスケットボールチームのチームドクターをやることになったが、先輩からはスポーツに携わるなら現場に行かないとダメだ、そうでないとドクターに何が求められているかがわからないからと教わってきた。そうかな、まあそうだろうと平日の夜や土日に現場に足を運び続けた。子供が小さいうちは妻に文句を言われながら。(今はいないほうが気楽なようだが・・) 現場に行きチームに帯同することによって仲間として受け入れてもらえたのはうれしかった。そしていつもそばにいる医師がきちんと診断をして治療をして選手が復帰していくというプロセスを繰り返すことによって、選手やスタッフから頼ってもらえると感じられるようになり励みにもなった。自分が関わっているチームや選手が優勝したり何かを成し遂げたときにはみんなで喜びを分かち合うことが出来る。これはスポーツ整形外科医としての醍醐味だろう。 医師になり30年以上が過ぎたが、スポーツ医としての知識や技術はいまだ不足と感じる。まだまだ精進しなければいけないと今日も思う。 バスケットボールワールドカップ2019帯同 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第4回】角田 篤信(耳鼻咽喉・頭頸科 科長・教授) 第4回 耳鼻咽喉・頭頸科 科長・教授 角田 篤信 解剖は医学の基本ですが分子生物学など医学の先端からみると地味です。ひねくれ者の私は先端分野ではなくマクロ解剖に興味を持ち、臨床の合間に研究をしていました。  高位頸静脈球症という病気があります。病気というより、生まれつき鼓膜の奥の中耳というところに脳からの大きな静脈が突出する病態です。医者の2年目でその病気の患者さんをみて興味を持ち、研究を進めました。そこで分かったこと・・・そもそも頸静脈球という人類誰もが持っている構造は人間にしかありません。人間はかなり特徴的な頭部構造をしており、それが耳鼻咽喉科の病気や手術に影響することが分かってきました。 例えば耳垢除去は耳鼻咽喉科で毎日のように行いますが、おなじサルでも耳垢を取るのが非常に難しいサル(ヒヒなど)と、容易なサル(クモザルなど)に分かれます。ヒトは中くらいです。また鼻中隔湾曲症と言う鼻づまりを起こすありふれた病気があります。当院では毎週のように手術をしていますが、問題になるのはほぼ人間だけ。犬猫はもちろんサルでも起きません。オーストラロピテクスとかホモ・エレクトスという人達にも無かったと推定されます。進化の過程で脳(前頭葉)が発達したことが鼻中隔湾曲症の発症に関係していると推定されます。100万年後の人類はもっと鼻づまりで困っている可能性があります。元々耳鼻咽喉科は扱う範囲が広いのですが、こんなことも研究対象となる面白い科です。100万年後は花粉症シーズン以外でも耳鼻咽喉科が混雑しているかも知れません。 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは   手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第3回】菱井 誠人(脳神経外科 科長・教授) 第3回 脳神経外科 科長・教授 菱井 誠人 はたと困った。  「妙手回春」 “手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること” 凄腕でも敏腕でもない私が何を語れるであろうか。    ベッドに私をおいて帰る母を追いかけた病院の廊下。  病院の前の雑貨スーパーでブリキの玩具を父に買ってもらった日曜日。  最古の記憶の私は病院の中にいる。  幼少で気管支喘息を発症した私は病弱であった。いつしか、将来自分は医師になりたいと思うようになっていた。 脳神経外科医を志したのは、当時の脳神経外科教授 石井昌三先生に憧れたからであった。  病院に寝泊まりした研修医時代。異文化に出会い大きな影響を受けた米国留学。手術に明け暮れた大学病院での日々のなか、主任教授より新設される順天堂大学練馬病院へ赴任の打診があった。現役脳神経外科医としてのキャリアの丁度折り返し地点であった。  後輩医師と二人での脳神経外科の立ち上げ。大変であったが熱気にあふれた楽しい日々であった。スタッフも増員になり診療体制は安定していったが、あの頃の熱気は冷却していったように思う。私の意識も、挑戦から 継続と継承に変化していったようである。    つい先日、一人の患者さんが外来を訪れた。若き日に全力を尽くして治療した患者さんである。病気の再発であった。 しばし動揺した。あの頃の体力はない。治療も更に困難である。しかし万全の準備を行い、後輩の手も借りて、もう一度この患者さんの治療に向き合いたい。 医者がいて、患者さんがいるわけではない。  患者さんがいて、医者がいる。  妙手回春。私にとっての妙手は患者さんであった。 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは    手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第2回】須郷 広之(院長補佐・/ 総合外科・消化器外科 科長・ 教授) 第2回 院長補佐 / 総合外科・消化器外科  科長・教授 須郷 広之変わったもの、変わらないもの   外科医になって早くも32年が経ちます。この間、世の中の変化には凄まじいものがあります。インターネットが登場し黒電話はなくなり「ダイヤルを回す」も死語になりました。私の故郷ではゴールデンウィークに満開となる「弘前公園・桜まつり」が有名ですが、この30年で桜の開花は2週間早くなり、まさに地球温暖化を実感しています。  外科医を取り巻く環境も大きく変化しました。30年前、手術の美徳は「早さ」であり外科医のイメージは「豪放磊落」でした。実際、そうした先輩方が多く、手術時間の早さが術後成績を左右しました。それが様々な技術や麻酔の進歩、腹腔鏡手術の登場などにより、現在は「早さ」より「丁寧さ」「低侵襲」が術後成績を左右します。実際、以前では考えられない“80代高齢者に大手術”も今や日常となっています。  一方で変わらないものもあります。それは「いい結果を得ようと思えば、人よりも余計に手をかけて時間を割かなければならない」ということです。新しい技術や知識の習得もそうですが、患者さんを良くしようと思えば、結局「よく診て手をかけて時間を割く」ことが重要です。どんな仕事も同じではないでしょうか?アスリートも受験生も農業も、結局「かけたものが返ってくる」のは一緒のようです。手術も素質(センス)よりも学習の方がはるかに重要です。  弘前公園の桜も、開花時期は変わりましたが、その美しさは変わりません。 50歳過ぎてのラグビーOB戦(救急集中治療科 杉田 学 教授(左)と筆者) 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは  手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。 【第1回】浦尾 正彦(院長・小児外科 科長・教授) 第1回 院長・小児外科 科長・教授 浦尾 正彦 私は朝の渡り廊下が好きだ。ひんやりとした中で朝日が差し込み1日の始まりを感じさせる。私がその感覚を初めて感じたのは外科研修医になりたての頃、夜通しの手術を終えて切除した検体を別棟にあった病理検査室に運んでいるときであった。  炎症性腸疾患の20歳代の患者さんが前夜に急変し緊急で全結腸切除をしなければならなくなった。深夜にもかかわらず外科の先輩たちは何の躊躇もなく集まり整然と手術をこなした。大変な手術で終了したのは朝であった。一番下っ端の私が検体をもって順天堂医院の渡り廊下を歩いていた時、ひんやりとした朝の空気の中、朝日が差し込み私を照らしたのだ。その時私は自分が今後外科医として歩んでいくのだという決意のようなものを強く感じ、なんだかうれしくなった。  その後子供を手術する小児外科医になってあっと言う間に35年が過ぎた。先日、重症便秘の40歳代の女性を手術することになった。この方は子供のころからひどい便秘だったが、どの病院でも「たかが便秘でしょ、下剤飲んだら?浣腸したら?」と言われ続けてきた。40代になっておなかはいつでも妊婦の様でどうにも排便できなくなってきた。通常の10倍近い量で浣腸を行って3kgの排便をしたが腹部膨満は取れない。「本当に3kgですか」と私が驚いて尋ねると、「排便後に3kg体重が減るから3kgです」と。あちこちの専門病院にかかっても対応は同じであり半分あきらめていたが、肝機能障害のために順天堂練馬病院を受診した。腹部膨満が尋常ではないことを感じた内科医は成人外科医に相談。そこから先天的な便秘疾患であるヒルシュスプルング病を扱う小児外科に素晴らしい連携で相談が回ってきたのだ。成人では極めて珍しいが腸管組織検査の結果から神経節細胞が無いヒルシュスプルング病であることが分かった。通常この疾患は乳児期に腸閉塞として発見されるが 無神経節腸管が短ければ浣腸などで何とか排便できるため40年もの間苦しむ事になってしまったのだ。まだまだ小児外科疾患が世の中に認知されていないことを残念に思いつつ、小児外科で手術をすることを決定した。  成人であるが、小児外科で行う結腸プルスルー術を施行した。切除した腸管は研修医の時に持ったのと同じ重さであった。術後経過は良好で、自力で排便できるようになった。「まったく人生が変わりました」と感謝していただけた。外科医冥利に尽きるお言葉を本当にうれしく嚙み締めた。 本日も朝日の当たる順天堂練馬病院の渡り廊下を歩いて病院に向かっている。自分の持てる力を何とか使って患者さんの新しい人生に貢献できるよう今日も頑張りたいと思う。 妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは  手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

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